こんにちは。
いつもブログをご覧頂きありがとうございます。
当記事では「終末期の意思決定のタイミング」について深掘りしています。
病院では終末期医療において事前の話し合いに力を入れています。
人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドラインにおけるACP (アドバンス・ケア・プラニング) もその流れの1つです。
- 「認知症である人」、すなわち「いま」の意思
- 「認知症になった人」、つまり認知症になる前の「先行する」事前指示
これらが齟齬を起こした場合、どちらの意思が効力をもつのでしょうか?
目次
認知症「かつて」の希望か「いま」の意思か
その根拠や人の選好意思には、直接的・経験的情緒的なものと、反省的・批判的理知的なものとがあります。
自律的な人、「判断能力がある人」とは後者の選好意思をもつ人のことです。
しかも、過去・現在・未来を通じて
- 通時的
- 統合的
事前指示書とは
事前指示書とは、通時的・統合的が未来にわたって自律的になす決定が記された書であり、その意味で未来へと「延長された自律」と考えます。
「認知症になった私」 とは、通時的・統合的なこの「私」が、 なにか非本来的(自己でない)状況に陥ったこと、その意味で自律的な「私」でなくなったことを示しています。
この考え方に立てば、 記憶喪失の人や、過去を忘れた認知症の高齢者は、先行する「私」 とは意識の同一性がないのだから、両者は別人格であると考えられます。
たとえ通時的 ・ 統合的な「私」が実体が存在するとしても、その「私」は、認知症が進んだ今は変容しているということもあえます。
時間が経過して状況が変化すれば、私の選好・意思も変化するのは自然のことです。
だとしたら、この新しい実在する「私」の意思にこそ耳を傾けるべきだと思います。
ややこしい話しですが大事なことです。
この立場に立てば実在するのは「認知症である私」であり、この私の意思だけが存在します。
パターナリズム【paternalism】
被支配者に対して、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し制限を加えることはその利益になるとして正当化する考え方。親と子、上司と部下、医者と患者、国家と個人との関係などに見られる。温情主義。
「実在する私」 の意思こそが尊重されなければいけません。
もしそうでなければ、生産性と結びついた理性が顔を出して、「認知症である私」 は判断能力を欠いているとして、死へと駆り立てられることになりそうです。
確かに、「認知症である私」は
- 刹那的
- 直接的
- 反省的
- 経験的
利益に従って生きるだけで、過去・現在・未来の通時的・統合的な「私」という物語を継続することはできないかもしません。
しかしそうだとしても、「認知症である私」には生存権がないとはいえません。
生存権がないとするのは、「認知症である私」 を、非本来的 (=自己でない) な「認知症になった私」と意味するからだと思います。
だからここには生存権をもつのは、通時的統合的な「私」理性、すなわち判断能力のある私という論点先取の誤りをみることができます。
なぜこのような誤りがいとも簡単に行われたのかというと、それは近代市民社会、さらには価値多元社的会における理想的人間像としての自律的人間像と深く関係すると思います。
過去記事にも書いた、尊厳死・安楽死の議論もこの延長線上にあると思います。
あなたは他人の心がわかりますか
問題は、「認知症である人」の心をいかにして知りうるのか、そもそも他人の心を人は知ることができるのだろうかという問いです。
自分を自覚していない赤ちゃんも笑い顔に笑い顔で答えます。
私が他者についてもつ視覚を通しての感覚との比較は不可能です。
人は自己の情緒や感動を自己の音声のうちに表に出しますが、また他人の同様な音声に接すると、そこにこの情緒や感動を直接発見するという理論もあります。
ケアリング
人が他者に対してとる態度には2通りあります。
1つは、存在するものをパートナーとして 「相向」させ、それを「受容する」 感度で。
これを「出会い」という言葉で表します。
もう1つは、存在するものを「対象」 とし、「知覚」し「経験」し、「利用」 する関わり。
幼い子がおもちゃを壊すような態度です。
ケアリングとは
- 査定したり
- 評価したり
- 可能な限り受け入れること
たとえば、親が子供のために生きるというように、動機づける活力が共有されることです。
本人が、自らの病魔と連帯して闘う人格的なパートナーとして、医療者を見出すことは可能でしょうか?
多分難しいと私は思います。
なぜなら病院には匿名化した機能としての医療従事者しかいないから。
今回は小難しい話しをしてみましたが、認知症や病気で終末期の方を介護するご家族に見て頂きたい内容でした。